『親ガチャ』論争がなかなか終わりませんね。
個人的には「そこまで論争が必要な言葉なのか?」
というのが率直な気持ちです。
==========
▼親ガチャ
自分の両親や生まれた家庭環境は選べない、完全な運任せであること
==========
私は子どもがいません。
当然ですが「子ども」だったことはあります。
もちろん、私自身は『親ガチャ』という言葉は使いません。
言葉としては嫌いです。
『ガチャ』という言葉が当たり外れを指すからです。
「ハズレ」は人に向かって使う言葉ではありません。
例えば比較的家庭環境にも親の愛にも恵まれた子から
「親ガチャに外れたね」と同情されたならザワッとするでしょうし。
一般家庭の子が親の年収程度のことで
「親ガチャに外れた」と発するなら
そこは自分の努力と才能で何とかしなね、と思うし。
ただ奨学金の返済を抱えながら大学に通うのとそうでないのとでは
その後の人生も含めて明らかに多くの場面で選択肢が変わるから
今への不満や将来への不安でボヤいたり。
不遇な家庭環境や親の愛に恵まれなかった子が
「親ガチャに外れたね」と言い合ったり
「親ガチャに外れた」と茶化すぶんには。
たんに自分の境遇を軽い言葉で流しながら
心の調整をしているのかなと感じます。
「子どもは親を選んで生まれてくる」
逆に私はこの美しい言葉に傷つきます。
私は誰からも母親として選ばれなかった。
その烙印を押されているように思うからです。
ともすれば『親ガチャ』という言葉そのものに
「なれなかった理想の自分」を感じて傷つく大人もいるのでしょうし。
苦労して育てた子に、どんなシチュエーションであっても
『親ガチャ』なんて言葉を使って欲しくないと
怒りや悲しみを感じる大人もいるのでしょうし。
想像を広げればキリがない。
完全に美しい言葉も、完全に醜い言葉も
この世にはそれほど存在しないのかも知れません。
そうこうしているうちにいろんな『ガチャ』が出てきて
この流行がスーッと消えていくのだろうと思います。